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区民展示:ウズベキスタンの紙芝居 ナヴォイ劇場の奇跡

ウズベキスタンの紙芝居 ナヴォイ劇場の奇跡

第二次世界大戦後にソビエトに抑留となった日本人捕虜がオペラ劇場建設に協力したという史実です。
うっすらと記憶の中にあった史実はウズベキスタンの劇場建設であったのか、と改めて学ぶことができました。
日本・ウズベキスタン協会へかるたと紙芝居づくりのためにお伺いした時、事務局長様から改めてお話を聞くことができました。

しかも協会の会長がジャーナリストの嶌信彦氏であることも伺い、改めて嶌氏の著作を読んでみようと思いました。
ナヴォイ劇場建設に協力した日本人捕虜のことは、両国有効の象徴的な話となっていると聞きます。
紙芝居の題材として難しさを感じ、また約10枚の紙芝居でこの史実を表現できるのだろうか、という迷いもありました。
 物語をラフを記し大使館の方にも見ていただき、また嶌氏にもお読みいただき了解を得ることができました。
絵は当初より、この物語の絵を描いてもらうのであれば、杉並区在住のイラストレーター・上丸健氏にお願いしたいと思っていました。上丸さんはかわいらしい絵も得意とされるアーチストですが、この紙芝居ではしっかりとした表現力をいかんなく発揮していただくことができました。このようなシーンがきっとあっただろうと思いました。

これからお話しする紙芝居は、今から75年も前、日本が第二次世界大戦に降伏して、戦争が終わった時からの話です。75年も前だと、その時に生まれた人も、もうおじいさんおばあさんですね。そしてこのお話は、日本とウズベキスタンの友好のお話しとして、長く語りつがれています。

日本の敗戦・抑留
日本軍の兵士たちは、中国やソビエト(今のロシア)、東南アジアなど様々なところで戦争が終わり、日本が負けたことを知りました。ソビエトにも何万人もの兵士(抑留者)がいましたが、一度に日本に帰ることはできず、多くの人々が捕虜として現地で働くこととなりました。とても寒いシベリアの地で働く者も何万人といました。

60万人近くもいた抑留者の引き上げは10年以上もかかりました。抑留者は船で日本海側の京都府舞鶴港や山口県・下関港に降り立ちました。最後の引き上げは1958年、戦争が終わって13年もたっていました。

ナヴォイ劇場建設の始まり
戦闘機(飛行機)の整備部隊の隊長であった永田行夫大尉(24歳)は240人の部下とともにソ連軍の捕虜となりました。永田大尉の部隊が働くことになったのは、当時はソ連の一部であったウズベキスタン共和国でした。第4ラーゲリ(ラーゲリというのは収容所のことです)の所長アナポリスキーは240名の日本軍にこう言いました。
「これから2年間で、ウズベキスタンの人とともに、オペラハウスを完成させて欲しい。」
「このオペラハウスはナヴォイ劇場と言い、ソ連の建築家シュシェフによるとても大きな建築だ。シュシェフは「赤の広場」のレーニン廊を設計した有名な建築家だ。皆の力で素晴らしいオペラハウスができることを期待している」と。
長い戦争に疲れ、やっと帰国ができると思っていた兵士たちはがっかりして肩を落としました。「2年で完成するのだろうか、この厳しい生活のもとで、生きて日本に帰れるのだろうか。」先の見えない状況に、皆は望みを失いかけました。

建設と食事
オペラハウスの建築という慣れない厳しい仕事になかなか作業は進みません。日本兵の主な仕事は、外観の仕上げや装飾の部分です。
「自分たちは耐えることができるだろうか、完成するまでに何人が生き残れるのだろうか・・・・。」悲壮感があふれます。
そんな中、みんなの唯一の楽しみは食事でした。とても質素で少ない食事でしたが、みんなは食事を楽しみにし、元気を与えてくれるものでした。
しかし、ラーゲリの食事は、一人一人の仕事の成果や進み具合によって多い少ないがありました。仕事のノルマ(役割)を果たせなかった者は、少ない食事をさらに少なくされました。土木工事など大変な力仕事はなかなか進まないこともあります。体力がいるにもかかわらず、少ない食事しか食べられないこともありました。

食事とアナポリスキー
永田大尉は、「きびしい生活だが私は一人も死なせるつもりはない、我々の仕事はこのナヴォイ劇場を2年間で完成させることだ。しかし本当の使命は全員が無事に日本に帰国して家族と再会することだ」 と。 そこで永田大尉はみんなの作業と食事が公平になるように工夫をしました。食事の量が少ない者には、多い者の食事を分けて、全員の食事を平等にしました。所長のアナポリスキーは不満そうにしていましたが、それで建設の作業が進むのであればと永田大尉の説得にしぶしぶ承諾しました。

若松少尉らの参加
その年の暮れに、ソ連は劇場の建設を急ぐために217名の捕虜を増員させました。その中に、建築学科出身の若松律衛少尉(21歳)がいました。ソ連は若松少尉を現場の総監督に任命し建築を急がせました。永田大尉たちも若松少尉が監督になることで、作業が進むだろうと喜びました。しかし、若松少尉は、この仕事には乗り気ではありません。
若松少尉は、永田大尉たちが早く帰国ができるようにソ連に取り入っているように感じていたのです。

永田大尉は若松少尉に言いました。
「私はこの劇場を世界最高のオペラハウスにしたいと思っているんだ」 「後の世の人には我々の貢献など知られることさえないだろう、それでいいじゃないか」「世界一の劇場を完成させることで取り戻して欲しいんだ、この戦争で失くしてしまった我々日本人の誇りを」永田大尉は若松少尉に語りかけました。
「日本人の誇り」 永田大尉のことばに若松少尉もうなずきました。
翌日から若松は現場の監督を務めあげました。若松少尉たち新しく参加した捕虜の力で建設速度は急激に上がりました。しかしこの頃、今まで何とか厳しい作業に耐えてきた日本人のたちの疲労はピークに達していました。

人々の交流と生活
そんな時、作業員の転落事故がおこりました。建物の上で作業をしていた永尾清が足を踏みはずして転落しました。彼の死にウズベキスタンの人は悲しみ、花を添えて彼の死をいたみました。永田大尉、若松少尉はこれからは皆で注意して、全員で日本に帰ることを改めて誓いました。

日本の兵士が力を合わせる時に「セーノ」「ソーリャ」「ヨイショ」と掛け声をかけます。ウズベキスタンの人々はそれが面白く、不思議でもありました。
「これは何のおまじないなのか」とよく聞かれました。
「これは和の精神です。皆で一つの大きな仕事を完成させるときに力を合わせ、協力する精神のことです。 食事を公平にして皆で劇場の完成を目指す、この気持ちも同じです。」 

建設の仕事は厳しいものでしたが、そんな中でも兵士たちは日々の暮らしを楽しくする工夫をしました。合唱団ができ、芝居をする者が現れ、バイオリンなど楽器をつくる者もおりました。ウズベキスタンやソ連の人々は、日本人の器用さに驚きました。日本の歌「さくら」を上手に歌う女性たちもいました。演芸大会にはウズベキスタンの親子も見に来てくれました。少しづつ、日本人とウベキスタン人とのお互いの文化や生活を尊敬しあう気持ちも生まれました。
中には、ウズベキスタンの女性との結婚を考え、このままウズベキスタンに残ることを希望する者もいました。しかし、ソ連の国籍をとることができず、望みはかないませんでした。

劇場の完成 ナヴォイ劇場の完成が近くなった時に、ソ連の将校たちも認めてくれて「完成見学会」を行うこととなりました。すでに最初に第4ラーゲリにいた兵士の半数以上が他の収容所に配属になっていましたが、帰国(ダモイ)の前にこの完成見学会に参加できることとになりました。
日本人の捕虜が捕虜にもかかわらず勤勉にはたらき、しっかりとした建設の仕事をしてきたことをソ連軍も人々も認めてくれました。
このナヴォイ劇場は、観客席が1400の3階建てのオペラハウスです。外観は洋風ですが、中は中央アジア式で特に控えの間である「サマルカンド」「ブハラ」の部屋などはウズベキスタン特有の美しい幾何学模様でおおわれています。休憩ロビーはタイケント、ホラズム、ブハラ、フェルガナ、テルメズの各地方のタイルによるレリーフです。
見学会の永田の挨拶の後には、親しくなったソ連の将校やウズベキスタン人が握手を求めて近寄り感謝の言葉を述べた。「本当にありがとう、スパシーバ」

それからしばらくの後、ナヴォイ劇場は完成しました。ウズベキスタン、ソ連、そして日本の協力で、この大きな劇場はみごとに完成しました。
日本人捕虜は、このナヴォイ劇場の建設だけでなく、発電所の建設、学校の建設などタシケントの街づくりも行いました。
タシケントとは「石の街」という意味です。
1947年、永田大尉、若松少尉らこの建設に携わった日本人捕虜455名は、無事に日本に帰国しました。

ナヴォイ劇場が完成して19年後、1966年、ウズベキスタンを大きな地震が襲いました。多くの建物が壊れる中、ナヴォイ劇場はそのしっかりした姿のまま、地震に耐えました。
「最高のオペラ劇場」の名にふさわしい堂々とした姿でたっていました。
ウズベキスタンと日本の確かな絆があるように。
2002年、首都タシケントの住民の要望により、日本から持ち込まれた約1000本の桜が植えられました。「もう一度日本の桜が見たい」そう願いながらも死んでいった日本人捕虜のためでした。
ナヴォイ劇場に設置された碑にはこう刻まれています。
「極東から強制移民された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナボイ劇場の建築に参加し、その完成に貢献した。

ウズベキスタンには、ウズベキスタンの人が自らつくった日本人資料館があります。ウズベキスタンで亡くなった方々の墓地への訪問も続いています。日本ではウズベキスタンのダンスを楽しむ方も多くいます。日本ウズベキスタン協会では、ウズベク語を学ぶ教室も開催されています。日本とウズベキスタン、遠く離れていますが、これからもっともっと近くの国になりそうに思います。

参考文献

伝説となった日本人捕虜(ソ連四大劇場を建てた男たち)
嶌 信彦 著 角川新書

日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた
嶌 信彦 著 角川書店